鎌倉幕府の三代将軍と言えば、源頼朝、頼家、実朝。
たった三代で正統な血筋は断絶したが、その全てが暗殺された可能性があるという。
そのあたりを書き留めておく。
※有名な肖像画のイラストだが、今では真偽不明で「伝源頼朝像」とされている。
初代将軍 源頼朝
史書よれば、頼朝は落馬により負傷し、後日それが原因で死亡している。
しかし、武士の筆頭であり、武芸にも秀でていた頼朝が、そこまでひどい落馬のしかたをしたというのは微妙だ。
そのため、脳出血や糖尿病や水銀中毒などによる死亡説もあり、どれも一定の根拠があるが、一方で病死ならば史書に残していておかしくないという疑問も残る。
それどころか、頼朝死亡前の3年間ほど(1196年から1199年正月まで)の記録が一切ないこともあり、本当の死因が秘匿されたのではないかという説もある。
なお、暗殺説についても、多くの説がある。
最も有力と言われているのは、北条氏による暗殺説だ。
三代将軍死後に実験を握り、最も得をしたのだから疑わしいのは当然だろう。
二代将軍 源頼家
源頼家は、十八歳で家督を継ぐが、二十三歳で暗殺された。
武芸にも優れたと言い、一度は家督を継ぐのだが、遊び呆けたり家来の愛妾を奪ったり、もちろん家臣とも対立したりで、弟の実朝を将軍に擁立する動きまで出てくる始末。
そんな中、病気で倒れてしまい、息子を跡継ぎにしようと企むが、結局は将軍職から追放された挙げ句、暗殺されてしまう。
史書によると、入浴中を襲われて、首を紐で縛られ、なおも抵抗したため、ふぐり(男性の急所)を刀で切り落とされて絶命したという悲惨な最後だった。
また、跡継ぎにしようとした息子は、母(頼家の妻)と共に逃げるも、その一族もろとも北条氏によって殺される。
さらに、残る3人の男子はお家騒動に巻き込まれて、暗殺されるか自害に追い込まれた。
唯一、女子であった竹御所は、四代将軍(藤原頼経)の正室となって生き残ったが、難産による死産の後に死亡してしまい、血筋は絶えてしまう。
三代将軍 源実朝
十二歳で征夷大将軍となり、成人後に実権を取り戻すべく政治に介入し、朝廷とのつながりを深めようとする。
しかし、二十八歳の時、頼家の次男である公暁(甥にあたる)により暗殺された。
ここで問題とされるのが、公暁が暗殺の際に「親の敵はかく討つぞ」と叫んだこと。
当時十二歳だった実朝が頼家をどうにかできたとは考えにくい。(それができるなら、成人後まで待たなくても良い)
つまりは、そう誤解させた黒幕がいたと考えられ、それが北條氏だったのだろうと言われているわけだ。
なお、頼家に子供はなく、頼朝の他の子供は早世しており、頼朝の正統な血筋は断絶した。
源義経など、多くを血に染めて手にした実権だったが、それゆえにか非業な成り行きが待ち受けていた。