日本史最大の謎の1つと言われる、邪馬台国と卑弥呼。
古事記や日本書紀に全く記述が残っておらず、中国の史書にわずかに記述があるのみという。
しかし、魏志倭人伝の記述どおりに進むと、沖縄の先の太平洋上に到着してしまう有様。
邪馬台国があった場所の候補には、畿内説(大和説)と九州説がある。
実際はこれ以外にも、出雲(いずも)、吉備(きび)、関東、沖縄などを主張する学者もいて、混沌としている。
畿内説は新井白石が最初に唱えたとも言われる。
根拠は次のとおり。
- 畿内で出土する三角縁神獣鏡が中国(魏)から下賜されたものと同じであると考えられている
- 当時最大級の集落跡である纒向(まきむく)遺跡が見つかり、現在も発掘中。(近くには卑弥呼の墓と目される箸墓古墳も)
- 大型の古墳が多く見つかり、後に栄えた大和朝廷につながっていると考えられる
ただし、魏に朝貢したというだけで、邪馬台国が当時の最大勢力とは限らないため、2つ目と3つ目はあまり根拠にならない。
また、纏向遺跡の年代が卑弥呼の時代と微妙にずれているという指摘もあり、大和と邪馬台国が並立していた可能性もある。
ついでに、三角縁神獣鏡は見つかっているが、大陸由来の遺物が見つかっていないため、1つ目も確かとは言いづらい。
一方、九州説は本居宣長が最初に唱えたとも言われる。
根拠は次のとおり。
- 魏志倭人伝に記述されている風俗が海洋民のものである。また、他の地域に触れずに北九州の小国を詳細に紹介している。
- 九州北部が弥生時代に大きく繁栄していた。(佐賀の吉野ケ里遺跡も)
- 漢委奴国王の金印が福岡で発見されており、九州に有力勢力があったことが分かる。
魏志倭人伝の記述の多くが当てはまるというのは有力な根拠だが、畿内説のほうが当てはまる部分もある。
また、繁栄していたことがそのまま邪馬台国であったことの証明にもならないのは上と同じ。
そして、前王朝の漢から金印をもらい、次の魏からも金印をもらったと考えるのは自然だが、肝心の親魏倭王の金印は見つかっていない。
どちらも決め手に欠けるというのが現状。
- なお、魏志倭人伝を信じれば、
- 239年には卑弥呼が女王になっていたこと
- その後、魏と数度交流したこと
- 247年に没したこと
- 後に男王が立つが内乱となり、十三歳の少女・壱与が女王になったこと
- 壱与も魏に使者を送っていること
などが分かっている。
問題は、その後の歴史書に名前が登場せず、150年くらいが空白の歴史になってしまっていること。
150年もあれば勢力図も大幅に塗り替わるわけで、後に大和朝廷ができていたからと言って、それが邪馬台国とつながりがあるのかも分からない。
このことが余計に邪馬台国の謎を深めている。